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国芳の金魚は、なぜ人間くさいのか

盃をかかげる金魚、徳利のそばで身をくねらせる金魚。歌川国芳の「金魚づくし 酒のざしき」には、すっかりできあがった金魚たちの酒盛りが描かれています。目元や口元をよく見ると、ほろ酔いの表情まで描き分けられていて、魚の絵というより、どこかの座敷の宴会をのぞき見しているような気分になります。

歌川国芳《金魚づくし 酒のざしき》《金魚づくし ぼんぼん》
歌川国芳《金魚づくし 酒のざしき》/《金魚づくし ぼんぼん》

作品データ

作品名
金魚づくし(揃物)
絵師
歌川国芳
判型
中判錦絵
刊行
天保13年(1842)頃
確認図数
9図(東京国立博物館の解説による)

九図の金魚たち

現在までに確認されている「金魚づくし」は九図です。題を並べると、百ものがたり、玉や玉や、さらいとんび、酒のざしき、まとい、にはかあめんぼう、すさのおのみこと、いかだのり、ぼんぼん。怪談を語り合う百物語の会、シャボン玉売り、にわか雨とあめんぼうの洒落と、どれも江戸の人々がよく知る暮らしの一場面を、金魚たちに演じさせています。

「ぼんぼん」は、盆の夜に子どもたちが手をつないで列をつくり、「ぼんぼん盆の十六日に…」と歌いながら町を練り歩いた行事のことです。この図は長く知られておらず、2011年の没後150年の国芳展で初めて公開された九図目でした。

改革の時代の戯画

天保12年(1841)に始まった天保の改革では、翌年6月に役者絵や遊女・芸者を描いた錦絵が禁じられ、錦絵一枚の値段も十六文以下に抑えられました。ちょうどこのころ、動物を人に見立てた戯画が目立って増えます。国芳の「猫の当字」(天保13年頃)は、猫の体を組み合わせて「なまづ」「たこ」「うなぎ」などの文字をかたどったシリーズです。

ただし、改革が戯画を生んだと言い切るのは早計です。国芳は禁令より前の天保12年に、擬人化した猫を描いた「流行猫の曲手まり」をすでに出しています。もともと得意だった遊びの絵が、規制のもとでいっそう磨かれた、と考えるほうが実情に近いでしょう。改革が終わったあとも役者の似顔は描きにくい状況が続き、弘化4年(1847)から嘉永元年(1848)ごろの「荷宝蔵壁のむだ書」では、壁の落書きを装って役者の似顔を描いています。題の「荷宝蔵(にたからくら)」は「似たから」の洒落です。

「武者絵の国芳」になるまで

国芳は寛政9年(1797)、京紺屋(染物業)を営む柳屋吉右衛門の子として江戸に生まれました。文化8年(1811)、十五歳で初代歌川豊国に入門しますが、しばらくは目立った仕事に恵まれません。転機は文政10年(1827)ごろ、加賀屋吉右衛門から刊行が始まった『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』でした。筋骨たくましい豪傑を画面いっぱいに描いたこのシリーズは大評判となり、豪傑の刺青をまねる者まで現れたといいます。

歌川国芳《義経十九臣》(大判三枚続のうち)
歌川国芳《義経十九臣》(大判三枚続のうち)

武者絵は、その後も国芳の看板でした。「義経十九臣」は、源義経と家臣たちが乗る船を描いた大判三枚続で、武蔵坊弁慶が船の先に立つ構図です。三枚を並べると、荒れる海の広がりが一つの画面になります。

大骸骨の三枚続「相馬の古内裏」

弘化2年から3年(1845〜46)ごろ、八幡屋作次郎から出た大判三枚続です。題材は山東京伝の読本『善知安方忠義伝』(文化3年刊)。平将門の遺児・滝夜叉姫が妖術で味方を集め、大宅太郎光国がそれに立ち向かう場面です。原作ではおびただしい数の骸骨が現れるところを、国芳は画面からはみ出すほどの巨大な一体にまとめてしまいました。骨格の描き方が正確なことから、西洋の医学書の挿絵を参照したのではないかともいわれますが、確かなことはわかっていません。

猫と弟子たち

国芳の猫好きはよく知られていて、仕事中も懐に猫を入れていたという話が残っています。出どころは、明治に出た飯島虚心『浮世絵師歌川列伝』や、河鍋暁斎の『暁斎画談』に描かれた国芳の画塾の様子です。その暁斎は天保8年(1837)、数えで七歳のときに国芳の画塾に入り、二年ほど学びました。門下からは月岡芳年や落合芳幾も育っています。

このストアの国芳アイテム

「金魚づくし 酒のざしき」のTシャツ、「相馬の古内裏」のTシャツ、蛙たちに人のような仕草をさせた「かゑるづくし」(天保13年頃)のTシャツやトートバッグ、猫にまつわることわざを猫の姿で絵解きした三枚続「たとゑ尽の内」(嘉永5年頃)のマグカップなどがあります。一覧は歌川国芳のアイテムからご覧ください。

掲載した図版3点は、運営会社が所蔵する作品を撮影したものです。

参考資料

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