
役者絵は、歌舞伎の役者を描いた浮世絵です。人気役者の姿を手元に置きたいという人々の求めにこたえるとともに、上演中の芝居を知らせる宣伝や、観劇の記念としての役割も担っていました。ここでは、江戸の芝居町の仕組みにふれながら、鳥居派の看板絵から、似顔の誕生、写楽と豊国、そして天保の改革による規制まで、役者絵の歩みを紹介します。
江戸三座と控櫓
江戸で歌舞伎の興行を幕府から公に認められていたのは、堺町の中村座、葺屋町の市村座、木挽町の森田座の三座で、これを江戸三座と呼びます。正徳4年(1714)の江島生島事件で山村座が取り潰されて以降、明治の初めまでこの三座の体制が続きました。
三座には、それぞれ「控櫓」と呼ばれる代わりの座が定められていました。中村座には都座、市村座には桐座、森田座には河原崎座が対応し、本来の座が借財などで興行できない間、控櫓がその興行権を代行します。享保19年(1734)に設けられた仕組みで、翌年、河原崎座が森田座に代わって興行したのが最初の例とされます。東洲斎写楽が寛政6年(1794)5月の役者大首絵で取材した都座・桐座・河原崎座は、いずれもこの控櫓にあたります。
天保12年(1841)、中村座と市村座の火災をきっかけに、三座は水野忠邦の政策によって浅草の猿若町へ移されました。猿若町では、一丁目に中村座、二丁目に市村座、三丁目に河原崎座(森田座)が置かれています。
鳥居派の看板絵
役者絵の歴史は、鳥居派とともに始まります。鳥居派は女方の役者であった鳥居清元を元祖とし、元禄3年(1690)に市村座の看板絵を描いたのが始まりとされます。以後、芝居の看板絵や番付絵をほぼ一手に引き受け、元禄期から今日まで続く唯一の浮世絵の流派となりました。
清元の子の初代鳥居清信(1664–1729)は大坂に生まれ、貞享4年(1687)に父とともに江戸へ出て、一枚摺りの役者絵を始めました。手足の筋肉をひょうたんのように誇張する「瓢簞足」と、太さの変化の大きい描線「蚯蚓描」は、荒事を演じる役者の豪快さを写すのにふさわしい表現とされます(この画法を鳥居清倍の創案とする説もあります)。顔見世番付に載る役者の絵は鳥居派の古風な様式で描かれ、一人ひとりの顔を写した似顔ではありませんでした。
似顔の誕生――勝川春章と一筆斎文調
明和2年(1765)に多色摺りの錦絵が生まれると、役者一人ひとりの顔立ちの個性を描き分ける「似顔」の役者絵が現れます。その功労者とされるのが、勝川春章(1726–92)と一筆斎文調です。明和から安永の初めにかけて、文調が細判の役者絵を多く描いたことが、似顔流行の始まりとされています。明和7年(1770)には、二人の合作による絵本『絵本舞台扇』が雁金屋伊兵衛から刊行されました。扇形の枠のなかに役者を描いた彩色摺りの絵本です。
春章の門人には、春好、春英、そしてのちの葛飾北斎である春朗がいます。顔を大きく描く役者の「大首絵」は安永期に現れ、辞典はその創始者を勝川春好としています。大首絵は寛政期の歌麿や写楽で頂点に達しました。
寛政6年――写楽と豊国
東洲斎写楽は、寛政6年(1794)5月から翌年正月までのおよそ十か月のあいだに、百四十点あまりの役者絵を残し、筆を絶った絵師です。作品はすべて蔦屋重三郎から刊行されました。最初に刊行された二十八図は、大判の黒雲母摺による大首絵で、役者の顔立ちや癖を誇張をまじえて描き出しています。浮世絵師の伝記集『浮世絵類考』は、写楽が役者の似顔を描いたものの、あまりに真を描こうとしたために長く続かなかった、と記しています。


同じ寛政6年の初めから、芝神明前の版元・和泉屋市兵衛は、初代歌川豊国(1769–1825)の「役者舞台之姿絵」の刊行を始めました。舞台に立つ役者の姿を描いた揃物で、現在四十七点が確認されており、豊国の出世作とされています。豊国は国政、国貞、国芳らを育て、やがて歌川派は浮世絵界の主流となっていきました。
天保の改革と役者絵
豊国の門人・歌川国貞(三代豊国)は、五十年以上にわたって役者絵を描き続け、幕末の浮世絵界で最も人気を集めた絵師の一人です。『日本大百科全書』は、生涯の作品数が浮世絵師のなかで最も多いとしています。
その国貞たちの仕事に大きな影響を与えたのが、天保の改革です。天保13年(1842)6月の出版統制で、遊女を描くことや、役者の似顔、名前、紋を浮世絵に描くことが禁じられました。新たな出版だけでなく、すでに出ている錦絵の売買も禁止され、同年12月には錦絵の値段が十六文以下に制限されています。太田記念美術館の学芸員によれば、この規制は四、五年ほどで緩んでいきました。イギリスのセインズベリー日本藝術研究所は、1847年頃に役者の名を記さない形で役者絵が復活したとしており、オーストラリアのビクトリア国立美術館は、1842年から1862年までの役者絵には役者の名が記されず、役名だけが書かれたとしています。

嘉永5年(1852)の国貞の「東海道五十三次之内 浜松 毛剃九右衛門」でも、画中に記されているのは宿場名と役名だけです。似顔は五代目市川海老蔵とされ、名を記さなくとも、見る人にはだれを描いたものかが伝わったと考えられます。
顔見世と役者絵
江戸の役者は、11月から翌年10月までの一年契約で各座に抱えられていました。毎年11月の顔見世興行は、新しい顔ぶれを披露する「芝居の正月」として最も重要な行事とされ、新しい座組は顔見世番付で公表されました。番付は10月20日前後に刷り上がり、町奉行所に届け出たうえで、贔屓筋に配られ、町なかでも売られています。役者絵は、こうした興行の宣伝と記念の両方の役割を担っていました。人気役者が亡くなると、その死を悼む「死絵」も出版され、八代目市川團十郎の死絵は、一説には三百種近く出たともいわれます。
役者絵を見るために
役者絵を多く所蔵する施設の一つに、早稲田大学演劇博物館があります。昭和3年(1928)、坪内逍遙の古稀と『シェークスピヤ全集』全四十巻の翻訳完成を記念して設立された博物館で、16世紀イギリスのフォーチュン座を模した建物で知られます。錦絵約四万八千枚をはじめ、百万点を超える資料を所蔵しており、2025年12月からは、所蔵する浮世絵の画像を立命館大学アート・リサーチセンターのポータルからも検索し、閲覧できるようになりました。
当店の商品
当店では、写楽の「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」と「市川男女蔵の奴一平」を向かい合わせに配したTシャツ、フラットポーチ(S/M)、江戸兵衛を図案にしたスポーツTシャツ、国貞の役者似顔の二枚続を用いたTシャツを販売しています。一覧は歌舞伎・役者絵のグッズからご覧ください。写楽と国貞については、東洲斎写楽と蔦屋重三郎、歌川国貞(三代豊国)と役者絵でも紹介しています。
掲載した図版のうち、写楽の2点はメトロポリタン美術館がパブリックドメインとして公開している画像、国貞の1点は運営会社が所蔵する作品を撮影したものです。
参考資料
- コトバンク「江戸三座」
- コトバンク「控櫓」
- コトバンク「鳥居派」
- 国立国会図書館サーチ『絵本舞台扇』
- コトバンク「東洲斎写楽」
- 太田記念美術館「コレクション13 歌川豊国 役者舞台之姿絵 高麗や」
- 太田記念美術館「国貞・国芳・広重とその時代 -幕末歌川派の栄華-」
- ひととき「国芳の団扇絵・猫と歌舞伎とチャキチャキ娘|学芸員さんに訊く、江戸の“推し活”(太田記念美術館)」
- セインズベリー日本藝術研究所「Chushingura Act 1, Number 2」
- 文化デジタルライブラリー 歌舞伎事典「顔見世」
- 国立国会図書館「本の万華鏡」第34回 第2幕「華やかな推し 歌舞伎役者」
- 早稲田大学演劇博物館「概要」










