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美人画の系譜

美人画は、役者絵とともに浮世絵の中心をなした分野です。もっとも、「美人画」という言葉が広く使われるようになったのは18世紀の末、喜多川歌麿が美人画の第一人者を自負していたころのことで、それ以前には、鳥居清倍が自らの美人の絵を「嬋娟画」と称した例も知られています。以下、菱川師宣から月岡芳年まで、およそ二百年にわたる美人画の移り変わりを、代表的な絵師と作品によって概観します。

菱川師宣と「見返り美人図」

浮世絵の美人画の出発点に位置づけられるのが、菱川師宣(?–1694)です。安房国保田村の縫箔師の家に生まれ、「菱川様」と呼ばれる美人の姿を流行させるとともに、版本の挿絵にとどまらず、一枚摺りの版画を鑑賞する「一枚絵」として確立しました。

師宣の代表作として知られる「見返り美人図」(東京国立博物館蔵)は、版画ではなく、絹に描かれた肉筆画です。縦63.0センチ、横31.2センチの画面に、緋色の着物の女性がふと振り返る一瞬をとらえています。落款の「房陽」は出身地の房州を、「友竹」は晩年の号を示し、制作は元禄年間(1688〜1704)の前期と考えられています。着物の文様は桜と菊です。

錦絵の誕生と鈴木春信

明和2年(1765)、江戸の好事家のあいだで、その年の月の大小を絵のなかに示した「絵暦」を競って作ることが流行しました。この競作を通じて多色摺りの技術は急速に洗練され、見当を用いて多くの色を摺り分ける木版画「錦絵」が生まれます。当初は「吾妻錦絵」とも呼ばれました。その中心にいたのが鈴木春信で、春信は錦絵の商品化にも大きな役割を果たしています。

春信は、笠森稲荷の水茶屋の娘お仙など、町で評判の娘たちを描き、古典の和歌を当世の風俗に移しかえた見立絵を得意としました。可憐な姿の美人は春信の作風をよく表しています。明和7年(1770)に没しました。

天明期の鳥居清長

天明期(1781〜89)には、鳥居清長(1752–1815)が、すらりと背の高い、いわゆる「八頭身」の健康的な美人を描いて人気を集めました。清長は大判の二枚続や三枚続の画面を生かし、江戸の実際の景色を背景に、何人もの女性を群像として描いています。「当世遊里美人合」「風俗東之錦」「美南見十二候」は、清長の三大揃物とされます。清長は天明7年(1787)頃に鳥居家の四代目を継ぎ、その後は家業である芝居の看板絵や番付絵に力を注ぎました。

歌麿の大首絵と寛政の改革

寛政期(1789〜1801)に美人画の頂点を築いたのが、喜多川歌麿(1753?–1806)です。鳥山石燕に学び、版元の蔦屋重三郎の後ろ盾を得て、女性の上半身を大きく描く「大首絵」によって、表情やしぐさの細かな変化を描き分けました。寛政4年から6年(1792〜94)頃の「婦人相学十躰」や「歌撰恋之部」がその代表で、「歌撰恋之部」は紅色の雲母摺の地に美人の大首絵を描いた五枚揃です。大首絵の形式は役者絵ですでに用いられていましたが、歌麿はそれを美人画の主要な形式として確立しました。

歌麿は、浅草の水茶屋の看板娘・難波屋おきたや、高島おひさ、富本豊ひなといった、町で評判の女性たちも描いています。この三人は「寛政三美人」と呼ばれます。

一方で、寛政の改革のもと、浮世絵の出版には厳しい目が向けられていました。1790年以降、市販の版画には検閲を経たことを示す改印が必要となり、寛政3年(1791)には蔦屋重三郎が出版統制令に違反したとして身上半減の処罰を受けています。彫りの精緻さや色数にも制限が加えられました。寛政5年(1793)に遊女以外の女性の名を画中に記すことが禁じられると、歌麿は「高名美人六家撰」で、名前を絵で示す判じ絵を用いました。たとえば「辰巳路考」は竜・巳・櫓・香の絵で、「難波屋おきた」は菜二把・矢・沖・田の絵で表されています。初版に狂歌が入っていた「高島おひさ」も、禁令の後に摺られた版では狂歌が削られています。歌麿は文化元年(1804)、豊臣秀吉と妻たちの遊観を描いた「太閤五妻洛東遊観之図」をとがめられて手鎖の刑を受け、その二年後に世を去りました。

英泉と国貞――幕末の美人画

文政期から天保期にかけて活躍した渓斎英泉は、文政の中ごろには美人画の第一人者と目されていました。菊川英山の門人で、背が低く、猪首の、濃艶な美人を描いています。浮世絵師の伝記をまとめた『无名翁随筆』(『続浮世絵類考』)の著者としても知られます。

幕末に最も人気を集めた絵師の一人が、歌川国貞(1786–1864)です。初代歌川豊国の門人で、天保15年(1844)に師の名を継いで豊国を名乗りました(自らは二代と称しましたが、今日では三代豊国と数えられます)。役者絵とともに美人画でも人気を博し、後年には猪首で猫背の独特な美人を描いています。安政6年(1859)の「今様三十二相」は、仏の身体の特徴をいう「三十二相」をもじり、当世の女性のさまざまな様子を描いた揃物で、「すずしそう」「始末がよさ相」のように、題の「相」に「〜そう」の意味を掛けています。

歌川国貞(三代豊国)《今様三十二相 始末がよさ相》安政6年(1859) 国立国会図書館蔵
歌川国貞(三代豊国)《今様三十二相 始末がよさ相》安政6年(1859) 国立国会図書館蔵

「始末がよさ相」の「始末がよい」とは、むだづかいをせず、物を大切にすることをいいます。右上のこま絵には、着物をほどいて洗い、板に張って乾かす「洗い張り」の様子が描かれ、題の意味を補っています。紅色の地に、藍の着物がよく映える一図です。

明治の「風俗三十二相」

「三十二相」の題は明治時代にも受け継がれました。月岡芳年の「風俗三十二相」(明治21年〈1888〉)は、寛政から明治までの各時代の女性を、「〜さう」という題で描き分けた揃物です。同じ「三十二相」の名をもちますが、国貞の「今様三十二相」とは別の作品です。浮世絵の美人画の流れは、その後、鏑木清方や伊東深水らの近代の美人画へと受け継がれていきました。

当店の商品

当店では、「今様三十二相 始末がよさ相」を図案にしたトートバッグS(ブラック/ナチュラル)を販売しています。国貞については歌川国貞(三代豊国)と役者絵で、役者絵の歩みについては歌舞伎と役者絵で紹介しています。

掲載した図版は、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている画像です。

参考資料

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