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ジャポニスムと浮世絵

19世紀後半のヨーロッパとアメリカでは、日本の美術工芸品への関心が急速に高まり、その影響は絵画や版画、工芸、さらには音楽にまで及びました。この動きを「ジャポニスム」と呼びます。浮世絵は、陶磁器や漆器、染織品などとともに、その中心にあった美術です。本稿では、浮世絵がどのような経路で欧米に渡り、だれがそれを紹介し、画家たちがどのように受け止めたのかを、美術館や研究機関の資料をもとにたどります。

「ジャポニスム」という言葉

「ジャポニスム(japonisme)」という語は、1872年にフランスの批評家で収集家のフィリップ・ビュルティ(1830–90)が初めて用いたとされます。ビュルティ自身、1863年から日本の美術品を集めていました。作家のゴンクール兄弟の日記には、1861年6月8日にパリの店「ラ・ポルト・シノワーズ」で日本の素描を買い求めたことが記されています。北斎や歌麿の版画がパリの収集家のあいだに出回るようになるのは、1860年代のことと考えられています。

1867年のパリ万国博覧会

1867年のパリ万国博覧会は、日本が初めて正式に参加した万国博覧会です。江戸幕府と薩摩藩、佐賀藩が出品し、これがジャポニスムの大きなきっかけとなりました。幕府はこの博覧会に向けて、日本の女性、名所、年中行事をそれぞれ五十枚ずつ描いた浮世絵の画帖三帖を用意させ、芳年や貞秀ら十名の絵師が筆をとりましたが、納められたのは二帖にとどまりました。商人の清水卯三郎は柳橋の芸妓三人を伴ってパリに渡り、出品の目録には「水茶屋」の名も見えます。

この博覧会では、フランスの版画家フェリックス・ブラックモンがウジェーヌ・ルソーとともに1866年から手がけた食器のセットも発表されました。図柄は『北斎漫画』や広重の魚づくしの版画などからとられています。日本の出品は1878年のパリ万国博覧会でも評判を呼び、日本趣味は大きな流行となりました。

『北斎漫画』をめぐる逸話

ジャポニスムの始まりを語る際によく引かれるのが、1856年、ブラックモンが刷師オーギュスト・ドラートルのもとで『北斎漫画』を見つけたという逸話です。日本から届いた磁器の箱に、仕切りの詰め物として入れられていたといいます。ただし、この話の出典は、およそ五十年後の1905年に美術史家レオンス・ベネディットが雑誌『アール・エ・デコラシオン』に寄せた記事で、実際の出来事は数年後だったとする指摘もあります。また、見つかったのは一枚摺りの版画ではなく、一冊に綴じられた絵本でした。太田記念美術館は、「浮世絵は陶磁器の包み紙として海を渡った」という話について、この逸話のほかに確かな根拠は確認できないとしています。

『北斎漫画』は、文化11年(1814)に初編が刊行され、明治11年(1878)の第十五編で完結した絵手本です。『世界大百科事典』は、ブラックモンがこの本をマネやドガらに紹介したと記しています。

画商と出版――ビングと林忠正

1880年代に入ると、日本の美術品を扱う画商がパリで大きな役割を果たすようになります。ジークフリート・ビング(1838–1905。日本ではサミュエル・ビングの名でも知られます)は、1880年から翌年にかけて日本を訪れて作品を仕入れ、1888年から1891年まで、月刊誌『芸術の日本(Le Japon artistique)』をフランス語、英語、ドイツ語の三か国語で計三十六号刊行しました。1890年の春にパリの国立美術学校(エコール・デ・ボザール)で開かれた日本版画の展覧会にも、ビングがかかわっています。

同じころパリで活躍したのが、林忠正(1853–1906)です。富山県高岡に生まれた林は、明治11年(1878)のパリ万国博覧会に起立工商会社の通訳として渡り、博覧会の後もパリにとどまって日本美術の店を開きました。『世界大百科事典』によれば、1890年から1901年までの十一年間に、版画十五万六千枚あまり、絵本類九千七百冊あまり、掛物八百四十六点を日本から取り寄せて販売しています。エドモン・ド・ゴンクールは林の協力を得て、評伝『歌麿』(1891)と『北斎』(1896)を著しました。国立西洋美術館は、林が扱った作品とその知識を「ジャポニスム隆盛の大きな原動力」と評しています。

画家たちと浮世絵

アメリカに生まれ、ロンドンを拠点としたジェームズ・マクニール・ホイッスラーの《紫と金の奇想曲:金屛風》(1864年、フリーア美術館)では、着物姿のモデルが広重の「六十余州名所図会」の一図を眺めています。同じくホイッスラーの《ノクターン:青と金―オールド・バタシー・ブリッジ》(1872〜75年頃、テート)は、両国の花火を描いた広重の版画としばしば比較されてきました。

クロード・モネは晩年、1856年にル・アーヴルで初めて浮世絵を手に入れたと語りましたが、作家オクターヴ・ミルボーは、1871年にオランダのザーンダムで食料品の包みに使われていた版画をモネが見つけたと伝えており、出会いの時期ははっきりしません。ジヴェルニーのモネの家には、歌麿、北斎、広重らの浮世絵二百数十点が伝わり、その多くが今も館内に飾られています。

フィンセント・ファン・ゴッホは1886年にパリへ移り、その冬から翌年にかけて、およそ六百六十枚の日本の版画を買い求めました。なかには売るために仕入れたものも含まれ、その大半は現在、アムステルダムのファン・ゴッホ美術館に収められています。1887年には、広重の「名所江戸百景」のうち「亀戸梅屋舗」と「大はしあたけの夕立」を油彩で写し、色調を大きく変えたうえで、別の版画から写した漢字を周囲に書き入れました。翌1888年7月、南仏アルルから弟テオに宛てた手紙では、自分の仕事はすべてある程度日本の美術にもとづいている、と書いています。

パリで活動したアメリカの画家メアリー・カサットは、1890年春にボザールの日本版画展を見て、1890年から翌年にかけて十点組の多色刷りのアクアチントを制作しました。

楽譜の表紙になった「神奈川沖浪裏」

浮世絵への関心は、音楽の世界にも及びました。1905年にパリのデュラン社から刊行されたクロード・ドビュッシーの管弦楽曲《海》の初版楽譜の表紙には、北斎の「神奈川沖浪裏」の図様が用いられています。ドビュッシーは、この図の額装された版画を部屋の壁に掛けていました。もっとも、曲の構想とこの図との結びつきを具体的に示す史料は知られておらず、両者の関係についてはさまざまな見方があります。

葛飾北斎《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》
葛飾北斎《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》

浮世絵と西洋美術とのかかわりは、今も展覧会のテーマとして繰り返し取り上げられています。2017年から翌年にかけて国立西洋美術館で開かれた「北斎とジャポニスム―HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」展では、北斎の錦絵約四十点と版本約七十点が、北斎の影響を受けた西洋の作品約二百二十点と並べて展示されました。

当店の商品

当店では、「神奈川沖浪裏」を図案にしたTシャツ、トートバッグ、フラットポーチを販売しています。一覧は「神奈川沖浪裏」の商品からご覧ください。北斎とこの作品については、葛飾北斎と「冨嶽三十六景」でも紹介しています。

掲載した図版は、運営会社が所蔵する作品を撮影したものです。

参考資料

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