
浮世絵の画面には、たいてい絵師の名前しか記されていません。けれど一枚の錦絵ができあがるまでには、少なくとも四つの立場の人がかかわっていました。企画して売る版元、絵を描く絵師、版木を彫る彫師、色を摺る摺師です。
版元 企画し、売る人
版元は、いまでいう出版社とプロデューサーを兼ねた存在です。何を出すかを決めて資金を出し、絵師や職人に仕事を頼み、検閲の手続きをして、刷り上がった錦絵を自分の店で売りました。版木を持つのも版元で、評判がよければ同じ版木で増し摺りをします。江戸で錦絵を出したのは、娯楽向けの絵入り本も扱う「地本問屋」で、嘉永6年(1853)には百四十六軒あったといわれます。写楽や歌麿を世に出した蔦屋重三郎も、その一人でした。
絵師 版下絵を描く人
絵師が描くのは、墨の線だけの「版下絵」です。この段階で検閲を受け、許しが出ると彫りに回ります。版下絵は版木に裏返しに貼られ、線を残して彫り進めるうちに失われてしまうため、ほとんど残っていません。色は、このあと絵師が別の段階で指定します。
彫師 版木を彫る人
彫師は、山桜の版木に貼られた版下絵の線を残して周りを彫り下げ、輪郭線の版「主版(おもはん)」をつくります。主版から「校合摺(きょうごうずり)」を何枚かとって絵師に渡すと、絵師はそこに朱で色を指定します。彫師はその指示にしたがって、色ごとに「色板」を彫っていきます。

上の図は、嘉永5年(1852)の役者絵の一部です。顔のまわりの髪や髭は、一本一本が版木から彫り出された線です。こうした細い毛筋を彫る「毛割(けわり)」は、彫師のなかでも熟練した者が受け持つ仕事とされました。
摺師 色を重ねる人
摺師は、版木に絵具をのせ、湿らせた和紙を置いて馬連(ばれん)でこすり、一色ずつ摺り重ねていきます。何枚もの版を寸分たがわず重ねるための目印が、版木に刻まれた「見当(けんとう)」です。版木の上で水と絵具の加減を変えれば、空や水面の「ぼかし」も生まれます。版元と絵師が試し摺りで色を確かめてから、本摺りに入りました。
最初に摺られる一杯(およそ二百枚)は「初摺(しょずり)」と呼ばれ、絵師の指示がもっともよく反映されたものとされます。評判を受けて摺り増したものは「後摺(あとずり)」で、色が変えられたり、版木がすり減って線が甘くなったりすることがあります。
錦絵のはじまり
こうした多色摺の木版画「錦絵」が生まれたのは、明和2年(1765)ごろのことです。江戸の好事家たちのあいだで、趣向を凝らした絵入りの暦(絵暦)を交換し合う会が流行し、技を競ううちに多色摺の技術が一気に進みました。その中心にいた絵師が鈴木春信です。それ以前の、紅や緑など二、三色を摺った「紅摺絵」に比べ、錦のように華やかだというので「東錦絵(吾妻錦絵)」と呼ばれるようになりました。
値段は、そば一杯ほど
こうしてできた錦絵は、大判一枚でおよそ十六文から二十文前後。かけそば一杯と同じくらいの値段だったといわれます。天保の改革のときには、一枚十六文以下に抑えるよう命じられました。四つの手を経た一枚が、そば一杯の値段で買えた。浮世絵が江戸の人々の暮らしに入り込んでいった理由の一つは、そこにあります。
このストアのアイテムについて
当店のアイテムは木版画ではなく、作品の画像をもとにプリントなどで仕立てたものです。それでも、たとえば北斎の「神奈川沖浪裏」の線画Tシャツを見ると、主版の線がどれほど緻密に組み立てられているかがよくわかります。













