
天保4年(1833)、版元の保永堂(竹内孫八)と仙鶴堂(鶴屋喜右衛門)が共同で、ひとつの風景版画のシリーズを売り出しました。東海道の五十三の宿場に、出発点の日本橋と終着点の京都を加えた全五十五図。歌川広重の『東海道五拾三次之内』、いわゆる保永堂版です。途中から保永堂の単独出版となり、翌天保5年に完結しました。
広重が実際に東海道を旅して写生したという話はよく語られますが、その根拠とされてきた「八朔の御馬献上の一行に加わった」という逸話には、研究者から疑問も出ています。現地での見聞と、先行する名所図会などの知識をどう組み合わせたのか。そこにはまだ議論の余地があります。
定火消の家に生まれて
広重は寛政9年(1797)、江戸八代洲河岸の定火消同心・安藤源右衛門の長男として生まれました。本名は重右衛門。十三歳で両親を相次いで亡くして家督を継ぎ、十五歳ごろ歌川豊広に入門、翌年「広重」の号を許されます。師の名の「広」と、本名の「重」を合わせた号といわれます。
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作品データ
- 作品名
- 東海道五拾三次之内 岡崎 矢矧之橋
- 絵師
- 歌川広重
- 判型
- 大判錦絵(横絵)約25×36cm
- 刊行
- 天保4〜5年(1833〜34)
- 版元
- 保永堂(竹内孫八)ほか
矢作川に架かる矢作橋は、幕府が架けた東海道随一の大橋でした。寛政9年(1797)刊の『東海道名所図会』は、長さを二百八間(およそ三百八十メートル)とし、「東海第一の長橋」と紹介しています。広重は橋の上に大名行列をずらりと並べて長さを見せ、対岸には徳川家康が生まれた岡崎城をのぞかせました。旅人が見上げるであろう景色を、そのまま一枚に収めたような構図です。
竪絵で描いた国々、『六十余州名所図会』
嘉永6年(1853)から安政3年(1856)にかけて越村屋平助から出た『六十余州名所図会』は、六十八か国と江戸の名所を一図ずつ描いた全六十九図(目録を加えて七十枚)のシリーズです。横長だった保永堂版の東海道に対して、こちらは縦長の竪絵。近くのものを大きく、遠くのものを小さく置いて、画面の上下を大胆に使っています。


「安芸 厳島祭礼之図」では、海に立つ大鳥居を画面からはみ出すほど手前に置き、その向こうを灯をともした船が進みます。題には「祭礼」としか書かれていませんが、旧暦六月十七日の夜に行われる管絃祭の情景と解されています。「周防 岩国錦帯橋」は、延宝元年(1673)に架けられた木造の錦帯橋。五つの橋のうち中央の三つがアーチで、両端は桁橋というつくりです。空の色の移り変わりは、版木の上で絵具の濃淡をつけて摺る「ぼかし」で表されています。
晩年の『名所江戸百景』とゴッホ
安政3年(1856)2月に刊行が始まった『名所江戸百景』は、魚屋栄吉が版元となった、広重最晩年のシリーズです。広重自身が描いたのは百十八図。没後に二代広重の一図と目録が加わり、全百二十枚になりました。極端に大きく描いた近景越しに遠景をのぞかせる構図がよく知られ、研究者のあいだでは「近像型構図」とも呼ばれています。
1887年、パリにいたゴッホは、このシリーズの「亀戸梅屋舗」と「大はしあたけの夕立」を油彩で模写しました。いずれもアムステルダムのファン・ゴッホ美術館が所蔵しています。原画より色を強め、絵の縁には別の版画から写した漢字を書き込んでいるのが目を引きます。
広重は安政5年(1858)9月6日、江戸でコレラが流行していたさなかに、六十二歳で亡くなりました。
「広重ブルー」という呼び名
広重の空や水の青は、近年「ヒロシゲブルー」「広重ブルー」と呼ばれることがあります。もとになっているのは、1830年ごろから浮世絵に広く使われるようになった輸入顔料のベロ藍です。19世紀のヨーロッパでそう呼ばれたのが始まり、という説明も見かけますが、確かな典拠は見つかっていません。太田記念美術館が2014年と2024年に開いた展覧会の名前にも使われ、いまではすっかり定着した呼び名です。
このストアの広重アイテム
当店の広重アイテムは、ほおずきを人に見立てたような赤い姿が手をつないで連なる図柄「童遊ひ見立ほふずき」をあしらったものです。Tシャツ、マグカップ、トートバッグ(S)の三点をご用意しています。一覧は歌川広重のアイテムからご覧ください。
掲載した図版3点は、運営会社が所蔵する作品を撮影したものです。








